2015年4月8日発行

【江川紹子の事件簿】政権側からの露骨なテレビ局への圧力とは、報ステ問題を考える

テレビ朝日HPより

【4月9日、mulan=東京】


■ショーとしては面白いが、報道番組としてはお粗末


テレビ朝日の「報道ステーション」で、コメンテーターとして出演した古賀茂明氏が、ニュースを無視し、圧力によって”降板”させられるなどと訴え、キャスターの古舘伊知郎氏とやりあった問題がひとしきり話題になった。ショーとしては面白かったのだろうが、報道番組としては極めて残念でお粗末な騒動だった。

これに対する反応を見ていると、古賀氏が「官邸の圧力」によって番組を「降ろされた」のではないかと、「言論の自由」に関わる問題として関心が向けられているようだ。だが、それは少し古賀氏を買いかぶりすぎのような気がする。

確かに、古賀氏は「官邸」から好かれてはいなかっただろう。ただ、彼のコメントに違和感を覚えていたのは、政府関係者だけでもない。その違和感は、反安倍という彼の思想信条についてではなく、コメントの質に向けられていたように思う。

同番組のレギュラーコメンテーターだった惠村順一郎氏や同番組の路線に関しても同様だ。私は、同氏が現実味を感じられないコメントをしているのに、じりじりしたことが何度もある。

権力監視は報道機関の大事な役割だからといって、政権批判が目的化し、事実とかけ離れた情報を伝えるのは、報道番組として邪道だろう。九州電力の川内原子力発電所をめぐる原子力規制委員会の記者会見を、同番組が恣意的に編集して伝えたことについて、放送倫理・番組向上機構(BPO)が「客観性と正確性を欠き、放送倫理に違反している」と指摘したのは、同番組の問題点が顕在化した例である。

古賀氏は、自身の”降板”に加え、惠村氏の降板や番組のプロデューサーの交代についても問題にしているが、4月の番組改編期に、コメンテーター陣を刷新し、プロデューサーを交代して、報道番組としての質の向上やイメージアップを図ろうというのは、放送局として極めてまっとうな判断のように思えた。


■コメンテーターは番組の構成要素のひとつ


もちろん、古賀氏らの出演やこれまでのプロデューサーの路線を好感したり、強く支持したりしている人もいる。そういう人達にとっては、テレ朝側の対応は不満だろう。その不満を表明することは自由だ。

ただ、コメンテーターは基本的には番組の構成要素のひとつであって、そこで取り上げる話題や進行を決めるのは、番組制作者の権限だと思う。それを一切無視して、自分が言いたい話題を本番でいきなり展開するのは、電波ジャックに等しいと言わざるをえない。

それに、テレビの報道番組は、決して、人々を啓蒙する場ではない。民主主義社会における報道番組のもっとも大事な役割は、人々が考え、判断する材料を提供することだと思う。そのために、様々な事実、それを理解するための知識、考えるための視点を視聴者に伝える。

人々が考え判断するための材料だからこそ、事実に関しては正確を期す。事実と意見はしっかり分け、見解が分かれたり賛否がある事案は一方に偏らずに伝えることが求められる。

コメンテーターは、主に知識や視点を提供するのが役割で、その発言に自身の経験や思想、主張が反映されるのは当然だろう。だが、特定の主張を披瀝することが目的化し、視聴者を啓蒙しようとする人は、討論番組の論者ならともかく、報道番組のコメント役には適さないのではないか。

今回のことで、番組の前にどれだけの打ち合わせが行われるのかとか、発言内容はシナリオが決まっているのかとか、そういう裏事情にも関心が寄せられているようだ。私の限られた経験では、台本にあるのは司会者が番組を進行する時のセリフなどで、コメンテーターに発言内容が指示されることはなかった。

番組によっては、担当者が事前に私の関心事や言いたいことを聞いて、それを番組に反映させる努力をしてくれることはある。打ち合わせで、互いに意見を述べ合いながら、私自身がコメントの優先順位を決めていくこともある。

スポンサーがらみの出来事を報じるニュースについて、「ここはコメントなしでいきます」とされたことは1〜2度あったが、政府批判になるから「あれを言うな」「この発言は困る」と言われた経験はない。私の場合、厳しく言われたのは、時間。テレビ番組は、時間内にたくさんの情報を盛り込みたがる傾向があり、VTRも多い。なので、コメントは短時間で行うよう、当初はしばしば注文がついた。

 発言内容は、当然のことながら、番組制作者や視聴者にチェックされ評価される。民放の場合は、視聴率への貢献度なども評価の対象になるだろう。そうした様々な要素を検討することなしに、「政府に都合の悪いことを言ったから降板させられた」と決めつけるのは、あまりに単純思考にすぎないか。

今回の騒動について、菅官房長官が放送法を持ち出したのは「巧妙な圧力」として伝えた報道機関もあった。私も、うっかりこの報道を鵜呑みにしてしまったのだが、後から菅氏の会見の映像を見ると、どうも状況は違うようだ。

いささか音声は聞き取りにくかったのだが、記者からは「長官の方から(この問題について)何かされるということは?」といった趣旨の質問が投げられたようである。それに対して、菅氏は「放送法という法律がありますので、まずテレビ局がどのような対応をされるかということをしばらく見守っていきたい」と答えた。これを聞く限り、政府の側から積極的に動かず、放送局の自律に委ねるという趣旨のように受け取れる。

とはいえ、私も今の政権のメディアとの関わり方が適切であるとか、報道機関に対する「圧力」が存在しないなどと言うつもりはない。テレビ報道の現状に問題がないとも思っていない。むしろ、現在の状況に対して強い危機感を抱いている。


■マスメディアから自民党への対応の批判はほとんどなし


実際に、現政権側から露骨な圧力がテレビ局に向けられたことがある。2013年6月にTBSの報道番組『NEWS23』に対し、自民党が「公正公平を欠く」として抗議し、取材拒否を通告した。

番組では、政局が優先して法案審議が十分なされずに重要法案が廃案になったという視点から、市民団体関係者が「(法案が)政争の具にされた。与党は法案を通す気がなかったのでは」と批判。一方で、それ以上の時間をとって安倍首相の発言を紹介している。

むしろ番組全体としては与党側の主張を厚く報じていたので、自民党の強硬な対応は意外だった。衆院総選挙の選挙戦に入る直前でもあり、取材拒否と幹部の出演拒否を突きつけられたTBS側は、相当に焦ったことだろう。

報道局長名で、〈御党より指摘を受けたことについて重く受け止めます〉として、「公正公平な報道」を誓う事実上の謝罪文を自民党に送って、取材拒否は解除された。

民主主義国家における政権と放送局のあるべき関係を考えれば、極めて不適切な出来事だろう。にも関わらず、マスメディアから自民党の対応への批判はほとんど聞かれなかった。

昨年11月の総選挙前にも、自民党は各テレビ局に要望書を出し、

▽出演者の発言回数や時間
▽ゲスト出演者の選定
▽テーマ選び
▽街頭インタビューや資料映像の使い方

などについて、細かく注文をつけた。

その直前には、やはりTBS『NEWS23』において、生出演した安倍首相が、「景気回復の実感があるか」がテーマの街頭インタビューで、「実感がない」という声が多かったことについて「おかしいじゃないですか」と反論し、恣意的に否定的なコメントを選んでいるのかという疑いを吐露した。

こういう注文を、しかも書面で政権与党が放送局に行えば、これは「圧力」として働く。それでなくても、選挙に対する国民の関心が低く、番組で取り上げても視聴率につながらない。そんな状況の中で、情報番組などはあまり選挙を扱わなかった、という。

ただし、こうした事例を見ていると、問題は政権側だけにあるわけではない。むしろ、放送局の側の腰の引けた態度が、政権側の節操に欠けたふるまいを許している、とも言えるのではないか。放送局は、あくまで「公共の電波」を預かっているのであって、それは「政府の電波」でも「放送局の電波」でもない。そこは、もっと自覚してもらいたい。


■公共の電波は政府の電波でもなければ、放送局の電波でもない


けれども、今回のような騒動があると、放送局側はそんなことより、こういう事態を起こさないために、より「安全」な路線をとることが大事になるのではないか。それによって、ことなかれ主義が進むのではないか。

具体的には、従前は信頼関係にまかされていたコメンテーターの発言内容が事前にチェックされたり、ちょっと毒を含んだ表現をする人の出演には慎重になったり……といったことにならないか。

その結果、番組で示せる言論や情報の幅が狭くなりはしないか。

古賀騒動が、視聴者の目に触れにくいところで、そんな余波をもたらさないかと、懸念している。杞憂であればよいが。【了】


江川紹子(えがわ・しょうこ)
1958年、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。1982年〜87年まで神奈川新聞社に勤務。警察・裁判取材や連載企画などを担当した後、29歳で独立。1989年から本格的にオウム真理教についての取材を開始。「オウム真理教追跡2200日」(文藝春秋)、「勇気ってなんだろう」(岩波ジュニア新書)等、著書多数。菊池寛賞受賞。行刑改革会議、検察の在り方検討会議の各委員を経験。オペラ愛好家としても知られる。個人blogに「江川紹子のあれやこれや」(http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/)がある。


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